過剰な男の哲学ブログ

読んだら、もう戻れない。

真の自由は"どこにもない、いない"

じっゆーーーだああああああああああああああああああああああああああああああ!

 

"自由"

 

なんて魅惑的な言葉だろう。

 

誰にも縛られず、好きなように生きて。

 

朝は鶏が鳴き疲れた頃に起きて、遊びながら死んだように寝落ちする。

 

そんな日々。

 

 

しかし、僕は「自由」というワガママで理想的な甘い言葉には騙されないぞ。

 

「だって自由なんてどこにもないじゃない」とか、そういうことを言いたいんじゃなくて、

 

自由って、突き詰めていけば"無"だということを知っているからだ。

 

 

自由とは何かと言えば「何にも縛られないこと」

 

多分よく分からないと思うので、じゃあ実際に縛りから解放されてみよう。

 

1、私達は社会に縛られてるから、そこから解放されよう。

 

チョキン。

 

2、私達が縛られてるのは社会だけじゃないよね、重力とか、これも縛りだよね。よし、自然から解放されよう。

 

チョキン。

 

3、重力が無くなっても、腹が減った。なんで食べなくちゃいけないんだ?食欲とか性欲とか睡眠欲とか。こんな縛りなくなっちゃえ!

 

チョキン。

 

4、あああもう!いたぁい!小指をたんすの角にブツケたよ!体なんかいらないよぅ!

 

チョキン.........................。

 

.............................................................。

 

さて、あなたは今、どこにる?

そこにあなたは存在している?

 

そう。縛りを究極まで無くす、自由になるということは、"無になる"ということだ。

 

「自由になりたい」そう思う心自体が縛りである。

 

しかしながら、縛りを全部無くせば、あなたはあなたでなくなり、自由を求める体が、心がなくなる。

 

真の自由なんてどこにもないのだ。

 

意思をもつ者にとって、最高の自由は「意思を捨てること」だとすれば、なんて滑稽なことだろう。

 

矛盾に満ちたわがままな命。

嫌いじゃないぜ。

 

 

 

 

 

 

 

自然へ感じる罪もまた、エゴであるらしい。

朝の散歩をしていて、アスファルトの間を縫って生える雑草を見つけ、なんと人間は罪深きものか、と思った。

 

本来町中を生い茂るはずの草木をコンクリートで封じ込め、たとえ町中で草木を見つけても、それは大体建物を彩る装飾品だ。

 

しかし、よくよく考えてみれば、 「なんと罪深きものか」 これは、人間に対しての罪である。

 

人間もまた、自然の産み落としし、自然であり、草木とは同じリングで争うライバルである。 

 

それを蹴落として、何が悪い。

 

ならば、この罪は、この罪悪感はなんだろう。

 

それはやはり、長期的視野において人間に不利益になるという意識なのである。

 

三千世界のウミガメを殺したとしても、それはフェアな闘技場で行われた正常な殺害であり、それによって起こる様々な人間に対する不利益を、人間は罰として考えて、勝手な罪意識を持っているのである。

 

自然保護活動は自然に対する人間の優しさではない、どこまでいっても人間はエゴでしか動かないらしい。

 

とある星で、エゴが息をしていた。

普通とは理想であり呪縛

「普通」は、社会の中で産声を上げる。 自分が居て、他者が居るのが社会であり、 その自分とその他大勢の他者の中で多数派だと「思われる」思想・行動様式の形、それが「普通」である。

例えば、あなたクラスで(便宜上)、ほとんどの人間が授業で手を挙げないとする。 このとき、授業で先生の質問があった場合、自分も手を挙げないのが普通である。

ただし、「普通」とはあくまでも、それぞれの人間が「こういうもんじゃないか」と主観的に思っていることでしかない。

 

しかし、「普通」とは主観的な多数決の結果であり、それが外れることはあまりない。

 

そのため、周囲の人間から多くの共感を得ることができる。

 

よって、「普通」が客観的な価値観だと思いこむ人間が多いようだ。

 

「普通」に背くことを恐れ、「普通」に憧れる。

普通とは理想であり、呪縛である。

だが、実際を伴う呪縛だ。

「普通」に背けば、罰せられる、場合が多い。

だから人は、「普通」になろうとし、「普通」の範囲内で舞おうとする。

無難な判断である。

 

だが、ここに一つ物申したい。

なぜ、「普通」に自分を合わせようとするのか。

なぜ、「普通」を自分に合わせようとしないのか。

 

先に述べたように、「普通」はとある社会の中で産声を上げる。

社会ごとに「普通」は異なるのだ。

例えば、日本ではお風呂で湯船に浸かることが普通だが、お隣の国中国ではそんな文化はない。シャワーだけで済ますそうである。

無論、自分が普通でないことに快感を感じている人は良いのだが、自分が「普通」でないことに悩んでいる人は、自分が「普通」になれる場所を探してみるのも一つの手だと思う。

 

「普通」になれる場所を探すことは普通じゃないって?

 

 

 

ぬるぬるモンキー教 公式サイト

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monkey

 

教団理念

神を感受し、想像せよ。

神を想像し、創作せよ。

神を創作し、叫べ。

「私はここにいる」と。

 

神はいつでも力を貸してくれる。

あなたが祈る限り、永遠に。

 

神はいつでも力を貸してくれる。

自らを信じる限り、永遠に。

 

緊張しているときこそ、神と一体となれる。

そこで一歩踏み出せば、最悪の事態は避けることができるだろう。

 

神を利用せよ。

あなたのために、神を利用せよ。

神がどんなに崇高な存在であっても、あなたの価値には勝らない。

 

ぬるぬるモンキーたちの教え

・両手の指を合わせて前後に動かす。それを続ければ、次第に両手の間に透明な板を感じられる。それこそが神を与えし神器であり、神と一体となった証拠である。

ぬるぬるモンキー教、祈りの儀。 - YouTube

 

 

 

 

 

ゆっくりと、死んでゆく人類

人類滅亡と聞けば、人工知能にぶっ殺されるとか、環境破壊による飢餓で死ぬとか、隕石に頭をかち割られるとか、考えるかも知れない。

だが、今回はそんな恐ろしいことは考えないことにしよう。

AIは暴走することなく、環境破壊はなんとか食い止めることができて、隕石を守るバリアかなんかを地球に作っちゃった、そんな理想みたいな世界の話をしよう。

「人類は永遠に幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし――。」

残念だが、多分そうはならない。

結論から言うと、結局滅亡すると思う。

ゆっくりと、そしてその他のバッドエンドよりかは安らかに。

 

具体的に記述していく。

AIをはじめ、様々な技術が発達すれば、相対的に人類の文化レベルは高くなる。

文化レベルが高くなれば、人々が求めるのは快楽、それすなわち「娯楽」になるに違いない。

そして、さらに技術は高くなり、「娯楽」の精度も高くなる。

ファミコン任天堂スイッチへと変化したように。

手紙がtwitterやLINEに姿を変えたように。

人々は狂ったみたいに「娯楽」に熱中するだろう。

そしてついにその日が来るのだ。

「娯楽」の面白さが「セックス」を超える時が来る。

するとどうなるだろう?

人々が「セックス」するのは、楽しいからに他ならないのに、そのアイデンティティが消滅するのだ。

「わが子孫を残すのである!」などと本気でほざいている連中は少ないと思う。

だから、人々は「セックス」する意味を失う。

ゆえに、子供は当然できなくなり、人類はゆっくりと死んでゆくのである。(先進国になるほど出生率は下がることも、この減少現象を後押しする)

この現象をグラフ化したとき、

快楽が横ばいの「セックス」に対し、指数関数的に増大する「娯楽」の線。

そして「娯楽」の面白さが「セックス」を超える点が現れる。

私はその点をこう名付けた。

性的特異点、すなわち「セックスシンギュラリティ」である。

これをもって、私のセックスシンギュラリティ理論とする。

 

 

だが、そうは言っても、誰も人類が絶滅してほしいとは思わない。

「なんとかしなければ!」という理性が働くからである。

しかし、その理性を吹き飛ばすのが「半出生主義思想」であると考えている。

反出生主義とは、「生きている、それだけで一部の幸せな人以外はつらい。僕らは最初から生まれなければ良かったんだ。僕らみたいな被害者が出ないためにも、子供は産むべきでない」という思想である。(進撃の巨人ジークの安楽死計画みたいな)

たしかに、自らの手でこの世界に産まれることを決断したわけではないから、不幸な自分たちは親のエゴの被害者だという思想は納得ができる。

自分の金で勝手に他人が宝くじを引いたみたいなものだ。

これが、子供を作らないことを正当化してゆくのだと思う。

 

 

技術と娯楽の力によって性的特異点に到達し、反出生主義によって滅亡への道を歩む人類の背中を押す。

だが、決して辛いことばかりではない。

なぜなら「セックス」よりも楽しい何かがその世を席巻しているはずだから。

(その娯楽が楽しすぎて反出生主義思想を淘汰してしまったとしても、減速はするが滅亡することには違いないと考える)

 

博士計畫

 

 

盲目だけが貴方を守る

宗教によって人は救済される。

 

51億人。

 

この数字は、上から順に、キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の信者数を足し合わせたものだ。

世界人口が76億人くらいだとして、半数以上を占める。

(世界でスマホを持ってる人が40億人くらいだと言われているから、スマホより普及しているのだ)

なぜこんなにも宗教は多くの人に支持されるのか。

 

それは、宗教が人を盲目して、世界の不条理から目を背けさせるからだ。

(そしてそれは劇薬である)

 

一般に、問題が発生した時、主に2つの解決法がある。

1つ目は、問題を根本的に解決すること

例えば、期末テストがあって、あなたは親に叱られないようにしたいとする。

この場合、問題を根本的に解決するためには、あなたは勉強して良い点数を取るしか無い。

勉強することによって、テストという脅威を積極的に排除するのだ。

 

2つ目は、問題から目を背けること、つまり現実逃避である。

これは一般的に良いこととはされていないが、そんなのどうでもいいことだ。

どういうことかと言うと、

 

期末テストぉ?そんなの受けなきゃええねん。

授業ぅぅ?そんなの休めばええねん、ということ。

 

でもそんなことを言っていたら、ほらやっぱり、親が怒鳴る。

「学校行きなさい!」

・・・そう、も分かったやろ、耳を塞げばええねん。

 

問題を直視しなければ、それは無いのと同じだ。

 

いやいや、そんなこと言っても、安西先生に怒られますよ。

ほらよく言うじゃないですか。

「諦めたら試合終了だ」って

 

でも私は明確に反論する。

馬鹿者がァ!いいか?物事ってのはな、

 

諦めなきゃ終わらねえんだよ!!!

 

そう、考えることをやめるのだ。

 

 

というわけで、キーボードを叩く手に少々熱が入ってしまったが、なんとか伝わったのではないだろうか?

問題を解決するには、根本的解決と逃避という選択肢があるということ。

 

要するに、宗教とは、後者の行為(つまり現実逃避)を正当化する最高のツールであるのだ。考えない。

特に、この世界には、問題を根本から解決できないものの方が圧倒的に多い。

地球温暖化の問題

戦争と平和の問題

地球環境の問題

宗教を否定できるのは、その気になれば鼻息一つで地球の平和を守ってくれるような、誰にも頼まずに問題を解決することができるような、まさに神のみである。

 

神は貴方を悩ませない。

辛いことがあっても、神は希望と許しを与えてくれる。

 

(ちゃんと生きていけるかな......)

お前は生きてていいんだぞ。

きっと、この先楽しいことがあるんだぞ。

 

 

そして、友達の大事なゲームのカセットを紛失してしまっても、神は明確なる理由を明示してくれる。

 

(なんで失くしちゃったんだ!もう終わりだ!)

今までの行いが悪かったのだ。

もっと徳を積みなさい。

反省すれば、許される。

 

もしかしたら、自分の部屋が汚すぎて、ものに埋もれてしまっているのかもしれない。

不注意な性格が祟ったものかもしれない。

普通、理由なんて一つではない、沢山の小さな理由が重なり合っている。

けれど、そんなカオスで気持ち悪い状況をは嫌だから、我々は神という救済の代理人を立てて、シンプルに問題を再構築しているのだ。

超絶わかりやすく。

 

でも、それでいいじゃんか。

この世界という怪物は、我々なんぞ虫の息で蹴散らしてしまう。

嗚呼、なんて一方的なことだろう。

嗚呼、なんと無慈悲なことだろう。

こんにち我々が住んでいる世界そもそもが、こちらが不利になるように設計されているのに、なぜ我々は真面目に立ち向かわなければならないのか。

 

相手が卑怯な手を使ってくる勝ち目のないギャンブルは即座に降りるべきなのだ。

逃げるは恥だが役に立つ

別に恥に思わなくたって良い。

 

どうせ逃げるなら思いっきし逃げてやれ。

どんだけ逃げても「五十歩百歩」で罪は同じなんだからよ。