普通とは理想であり呪縛
「普通」は、社会の中で産声を上げる。 自分が居て、他者が居るのが社会であり、 その自分とその他大勢の他者の中で多数派だと「思われる」思想・行動様式の形、それが「普通」である。
例えば、あなたクラスで(便宜上)、ほとんどの人間が授業で手を挙げないとする。 このとき、授業で先生の質問があった場合、自分も手を挙げないのが普通である。
ただし、「普通」とはあくまでも、それぞれの人間が「こういうもんじゃないか」と主観的に思っていることでしかない。
しかし、「普通」とは主観的な多数決の結果であり、それが外れることはあまりない。
そのため、周囲の人間から多くの共感を得ることができる。
よって、「普通」が客観的な価値観だと思いこむ人間が多いようだ。
「普通」に背くことを恐れ、「普通」に憧れる。
普通とは理想であり、呪縛である。
だが、実際を伴う呪縛だ。
「普通」に背けば、罰せられる、場合が多い。
だから人は、「普通」になろうとし、「普通」の範囲内で舞おうとする。
無難な判断である。
だが、ここに一つ物申したい。
なぜ、「普通」に自分を合わせようとするのか。
なぜ、「普通」を自分に合わせようとしないのか。
先に述べたように、「普通」はとある社会の中で産声を上げる。
社会ごとに「普通」は異なるのだ。
例えば、日本ではお風呂で湯船に浸かることが普通だが、お隣の国中国ではそんな文化はない。シャワーだけで済ますそうである。
無論、自分が普通でないことに快感を感じている人は良いのだが、自分が「普通」でないことに悩んでいる人は、自分が「普通」になれる場所を探してみるのも一つの手だと思う。
「普通」になれる場所を探すことは普通じゃないって?